タイトル未定です。

「自分の人生には、何円くらいの価値があるか?」

そんな質問をされたことがあったな。 確か、小学四年生の道徳の授業だったか。 大半の生徒はきょろきょろ周りを見ながら最終的には、数千万から数億という結論を出してさ。

「お金では買えない」って考えを譲らない生徒もいたね。

大人に聞いても似たような答えが返ってくるだろうな。 少なくとも俺は実際に寿命を売るその日までは、 自分の人生は二、三億くらいの価値があると思ってた。

だから十年か二十年くらい寿命を売って数千万得て、 残りの人生を楽に生きるのが利口だと考えてたんだよ。 幸せな六十年とそうでもない八十年だったら、前者の方が絶対いいに決まってるからな。

査定結果を見た時はひっくり返りそうになったぜ。 どうやら俺の一生、百万円にも満たないらしいんだよ。

二十歳の七月くらいの時の話なんだが、 その頃、俺はとにかく金に困ってた。

白米とみそ汁以外のものを口にしてなくてさ、 数日前、ウェイターのバイト中に三回ぶっ倒れて、 そろそろ栄養のあるものを食べないとまずいと思った。

金になるものといったら、家具、数十枚のCD、 それに数百冊の蔵書の他には考えられなかったな。 ほとんど中古品で、たいした価値はないんだが、 それでも一か月の食費くらいにはなるかと思って、 できるだけ新品に近付けようと入念に掃除して行きつけの古書店や楽器屋に売りに行ったわけだ。

古書店の爺さんは俺が本を大量に売りにきたのを見て、

「一体何があったんだ?」って心配してくれた。 普段はそっけない爺さんだったから意外だったな。

「紙はおいしくありませんからね」って俺が遠回しに答えると、爺さんは心底同情したような目で俺を見つめた。 でも金はくれなかったな。向こうも貧乏だから仕方ないけど。

はした金を受け取って店を出ようとすると、

爺さんは「なあ、ひとつ話がある」と俺を引きとめた。 金くれんのかなーと思って「はい?」と戻ると、 言われたんだよ、「寿命、売る気ねえか?」って。

老いの恐怖でついにボケちまったかと思いつつ、 俺は話半分に爺さんの説明を聞くことにした。 つまりはこういうことらしい。

ここからそう離れていないとこにあるビルに寿命の買い取りを行っている店が入ってるらしい。 そこでは時間や健康さえも売れるんだが、 寿命は特に高値で取引されてるんだそうだ。

爺さんは震える手で地図と電話番号まで書いてくれたが、 俺でなくたってそんな話、爺さんの願望が作り上げた 空想に過ぎないって思ってしまうだろう。 ちょっとかわいそうに思ったね。死ぬの怖えんだろうな、って。

ところが、次に訪れたCDショップでも、

俺は古書店の時とまったく同じことを言われるんだ。しかも今度の相手は二十代後半の兄ちゃんで、さすがにボケてるとは考えにくいんだよな。

「ここだけの話っすけどね」

と彼は教えてくれた。

「近くに、寿命を買い取ってくれる店があるんすよ」

しかも彼、実際に寿命を売った経験があるそうなんだ。

「いくらくらいになりました?」

と興味本位で聞いてみると、

「口止めされてるんすよねー」

とごまかされた。

全世界にからかわれてる気分になったな。

だが結局、俺はそのビルに向かうことになった。 CDも本も家具もまったく金にならなかったからだ。 寿命を売るなんて話を信じたわけじゃない。 しかし、俺はこういう可能性を考えたんだよ。

爺さんや兄ちゃんが言っていたことは何かの比喩で、 実はものすごく割のいいバイトがあるんじゃないかって。

寿命を縮めるようなリスクを負う代わりに、

一か月で百万くらい稼げたりするとか、そういうの。 ところが、うす暗い階段を上がってドアを開け、 目が合った店員らしき女が、俺の顔を見るなり

「時間ですか? 健康ですか? 寿命ですか?」

なんて言ってくるもんだから、笑っちゃうよな。

一連の出来事で神経がまいっていたのか、 俺はもう考えるのが面倒になって「寿命」と答えた。

「二時間ほどお時間をいただきます」と女は言い、 すでに両手はPCのキーボードをかたかた叩いていた。

おいおい、人の価値って二時間程度で分かっちゃうのかよ?

俺はあらためて店内を見回した。

なんていうんだろうな、眼鏡のない眼鏡屋、

宝石のない宝石店みたいな空間とでもいうか。

でも俺の目に見えないだけで、本当はそこら中に 寿命とか健康とか時間が飾ってあるのかもしれない。 なんてな。いつまでこの笑えない冗談は続くんだ?

駅前の広場に行って、煙草に火を点け、 最後の一本を時間をかけて味わった。 煙草もそろそろやめなきゃな、と思う。 金食い虫だし健康にもよくねえからな。 近くで鳩に餌をやっている老人がいたんだが、 それで食欲が湧いてしまう自分が情けなかったな。

もうちょっとで鳩と一緒に地面をつっつくとこだったぞ。

寿命、高く売れるといいなあ、と思った。

駅で時間を潰した後、俺は少し早めに店に戻り、 ソファでうたた寝しながら査定結果が出るのを待った。 二十分ほどして俺の名前が呼ばれた。 妙だよな。俺、一度も名乗った覚えはないんだよ。

査定結果を見て、俺は変な声をあげちまった。

一年につき一万円? 余命三十年?

ブックオフだってもう少しまともな値段をつけるぞ。 カメか何かの結果と取り違えたんじゃないのか? でも、そこには確かに俺の名前が書いてある。

「これ、何を基準に決められてるんですか?」

俺はそう言いつつ査定表を女店員に見せた。

「色々です」と彼女は面倒そうに答えた。

「幸福度とか、実現度とか、貢献度とか、色々」

多分、こういう質問に飽き飽きしているんだろうな。

女店員はシステムの詳細を教えてくれた。本当は教えちゃいけないらしいんだが、 あんまりにも俺がしつこかったんだろうな。

特にショッキングだった情報は、一万円というのが寿命一年あたりの最低買取価格だったってこと。 ようするに、俺の人生は限りなく無価値に近いってことだ。 幸せになれず、また誰一人幸せにできず、 何一つ達成できず、何一つ得られないらしい。

「問題がなければ、こちらにサインをお願いします」

女店員がしびれを切らしたように言うが、これを見て問題がないって言うやつがいたら、

そいつは脳の病院に行った方がいいと思うぜ。

だがその頃には俺の感覚は麻痺しちまっててさ、 自分の物や時間を安売りするのに慣れ過ぎてた。 で、ヤケになって、こう答えちまったんだ。

「三か月だけ残して、あとは全部売ります」

三十万入った封筒を持って、俺は店を出た。

引きつった感じの笑いがこみあげてきたな。何が悲しいって、俺の寿命の安さの理由、俺自身、なんとなく分かる気がするんだよ。

だがそれについては考えたくなかったから帰り道に酒屋によって大量にビールを買いこんで、 俺はそれを飲みながら夜道をゆっくり歩いた。 酒なんて飲むのは本当に久しぶりだったね。 だからすっかりアルコール耐性もなくなってて、 俺は帰宅して二時間後には吐いてた。

余命三か月、最低のスタートを切ったわけだ。

眠りにつけたのは朝四時くらいだったなんだが、 こういう日に限って幸せな夢を見ちまうんだよな。 小学生の頃の夢だった。なんでもない夏休みの夢。 親の車で、幼馴染とキャンプにいった時の夢。

ああ、泣いたね。寝ながら泣いてたね。

無慈悲に幸福な夢から俺を救出したのは、呼び鈴の音だった。 無視し続けてると、俺の名を呼ぶ声がした。

ドアを開けると、見慣れない女が立っていた。 なんか条件反射的に喜んじまったけど、 その目つきを見て、俺は思い出した。

そいつは俺の寿命の査定をした女だったんだ。

「今日から監視員を務めさせていただくミヤギです」

そう言うと、ミヤギと名乗る女は俺に軽く会釈した。 監視員。そういえば、そんな話もあったっけ。

二日酔いの頭で昨日の記憶を探りつつ、

俺はトイレに駆け込んでもう一回吐いた。

げっそりした気分でトイレから出ると監視員がドアの正面に立っていた。 最前席で聞きたかったのかな、俺の吐く音。

うがいをして水をコップ三杯飲みほすと、

俺は再びベッドに戻って横になった。

「昨日も説明しましたけど」と横でミヤギが言う、

「あなたの余命は一年を切りましたので、

今日からは常時、監視がつくことになります」

「その話、後じゃ駄目か?」と俺はミヤギをにらんだ。 ミヤギは「わかりました。じゃあ、後で」と言うと、 部屋のすみっこに行って、三角座りをした。

以後、ミヤギはそこから俺を定点観測し続けることになる。 似たような経験のある人には分かると思うが、 これをやられると生活のペースはすっかり狂う。

ほら、人に見られてるとできないことって沢山あるだろ?

寿命が一年を切った客には監視員が付くってのは、

確かにあらかじめ聞いていた話ではあったんだ。

ミヤギの説明によると、寿命が半年を切った客がヤケになって問題を起こすことがあまりに多いからそれを未然に防ぐために監視員が導入されたそうだ。

もし俺が他人に多大な迷惑をかけそうになったら監視員が本部に連絡して、俺の寿命を尽きさせるらしい。トラヴィス・ビックルにはなれないってこった。

ただ、最後の三日間だけは、監視員も外れて、 純粋な自分の時間を満喫できるそうだ。 統計的に、そこまでくると人は悪さをしなくなるとか。

夕方には、吐き気も頭痛も消えていた。

俺はようやく物をまともに考えられるようになってきた。 昨日、衝動的に寿命の大半を売ったことについては自分でも意外なほど後悔していなかったな。 むしろ三か月も残さなきゃよかった、とさえ思った。 監視されっ放しの三か月なんてごめんだからな。

三日くらいしかいらなかったんじゃないのか?

さて。自分の価値の低さを今さら悩んでも仕方ない。 問題は、これから何をするかだろう。三か月で。

俺はルーズリーフを一枚取り出し、ペンを手に取り、 そこに「やりたいことリスト」を作成した。 いよいよそれらしくなってきたな。

やりたいことリスト。たとえば、こんな感じだ。

 ・幼馴染に会って礼を言う

 ・親友と会って馬鹿話をする

 ・なるべく多くの時間を家族と過ごす

 ・知人全員に向けて遺書を書く

 ・大学には行かない

 ・アルバイトにも行かない

まあ、全体的に平凡な発想だ。 誰に書かせても似たような感じになるだろうな。

いつの間にか真後ろにミヤギがいて、

俺の書いたリストを眺めていた。

「それ、やめた方がいいですよ」

一つ目の項目を指差して、彼女は言った。

”幼馴染に会って礼を言う”。

「なぜ?」と俺はミヤギに訊ねた。

――幼馴染について、ちょっと説明するか。

夢にも出てきたその子と俺は、四歳からの仲でさ。 彼女が転校するまでは、どこにいくにも一緒だったんだ。

中学に入って新しい環境に馴染めずクラスで孤立した俺に唯一毎日話しかけきて、 「どうしたの?」って聞いてくれたのも幼馴染だった。

離れ離れになった後も、辛いことがあったときに俺が思い浮かべるのは幼馴染のことだった。

彼女がいなきゃ、今の俺は無かっただろうな。 まあ、無いなら無いでいいんだけどな。

とにかく俺は彼女に感謝していたんだ。

ここ数年まったく連絡はとっていなかったが、 もし彼女に何かあったら真っ先に駆けつけようと思ってた。 どんな形でもいいから、彼女に恩返ししたいと思ってたんだ。

「その幼馴染さんですけど」とミヤギは告げる。

「十七歳で出産してるんです。で、高校を退学。 十八歳で結婚しますが、十九歳で離婚してます。 二十歳の現在は、一人で子育てしてますね。 ちなみに二年後、首吊り自殺することになってます。 いま会いにいくと、多分『お金貸せ』とか言われますよ。あなたのこと、ほとんど覚えてませんし」

俺がどんな反応を示したかって?

そりゃ、がっつり傷ついたさ。がっつりな。一番大切な記憶を台無しにされたんだからな。

情けない話なんだが、二十歳になっても俺の根っこの部分はどこまでもピュアと言うか

ナイーヴというかセンシティヴというか、ようするに子供の頃から成長していなかったんだな。

何かが変わったり、何かが終わっていく、そういうことがいまだに耐えらないんだよ。

成人男性のくせにカナリヤ並に敏感なんだ。

「ふうん」と言いながら煙草に火を点けた。

三本くらい吸うと、体調が悪いせいか、嫌な感じに頭が痛くなってきてたな。でも吸い続けた。色んなことを忘れるために。

ミヤギは部屋のすみに戻っていった。

で、ノートにさらさらと何かを書いてたな。

気が付くと、いつの間にか日が落ちていた。俺は自分の書いたリストに目を落とし、幼馴染の項に取り消し線を引いた。

それからもう一度リストをじっくり眺めて、

電話を手に取り、ゆっくりボタンを押した。

『どうしたの? 珍しいね、あんたからかけてくるなんて』

お袋の声を聞くのは、本当に久しぶりだった。 バイトと勉強が忙しくて電話をする暇がなかったからな。

「急で悪いけど、今から実家に帰っていいかな」

俺はお袋にそう聞くつもりだったんだ。で、家族の無償の愛とやらに包まれながら余生を穏やかに過ごそうと思ってたんだよ。だが、こっちが何か言う前に、お袋はべらべらと喋り出した。

それは俺の二つ下の、弟の話だった。

お袋はことあるごとにあいつの話をしたがるんだよ。

というのも俺の弟、ちょっとした有名人なんだ。 野球をするために生まれてきたような男でさ、 一年の時から甲子園で投げてるんだよ。 テレビにもしょっちゅう出てるんだ。自慢の弟さ。

弟の相変わらずの大活躍については勿論のこと、 お袋は弟が連れてきた恋人の話までし始めた。

「とにかく美人なのよ」とお袋は二十回くらい言った。

「同じ人間とは思えないほど美人でね、その上性格も……」

まるでもう孫ができましたみたいな話ぶりでさ。 俺の話なんて全く聞こうとはしてねえんだよな。

実家に帰ろうという気持ちは、段々としぼんでいった。 最近ではその弟の素敵な恋人さんってのをしょっちゅう家に招いて夕食を一緒にするらしい。 その場に俺が混ざるのを想像しただけで死にたくなったね。

俺は適当なところで電話を切った。実家に帰るのは、やめた。

今日は何をしても駄目な日なんだ、と俺は決めつけた。 好きなことでもして気分を紛らそうじゃないか。 それで明日になったら、また何をするか考えよう。

というわけで、欲望の赴くままに過ごそうと決めた俺だったが、その上で、どうしても邪魔になるやつが部屋のすみにいるんだよな。

「私のことはいないと思ってくださって結構ですよ」

俺の気持ちを察したのか、ミヤギはそう言う。 だが、本人がいくらそう言っても、気になるものは気になる。 自分で言うのもなんだが、俺はかなり神経質なんだ。

同世代の女の子に見られてるのを意識しだすと、 行動のひとつひとつがおかしくなるんだよ。 「自然体っぽい格好よさ」を出そうとしちまうんだな。 気付くと髪を触ってるんだ。完全に自意識過剰だ。

しばらくは手元に残ってた本の中でも一番難解な 「フィネガンズ・ウェイク」を読んで格好つけてた。 当然、内容はさっぱり頭に入ってこなかった。 余命三ヶ月だってのに何をやってるんだろな。

読書に飽きた俺は近所のスーパーに行ってグラス付きのウイスキーと氷を買った。 ミヤギも菓子パンやら何やらを買いこんでた。それを見た俺は、なんか幸せな錯覚に陥ってさ。

実を言うと、俺には昔から憧れがあったんだよ。 同居してる子と部屋着のままスーパーに行って、 食材とかお酒を買って帰ってくるって行為に。

羨ましいなー、って思いながらいつも見てた。 だから、たとえ監視が目的だろうと、若い女の子と 夜中のスーパーで買物するってのは楽しかったんだ。 むなしい幸せだろ?でも本当だから仕方ない。

家に帰って、ウイスキーをちびちび飲んでいるうちに俺は久しぶりに良い気分になってきた。 こういうとき、アルコールってのは偉大だな。

部屋のすみでノートに何かを書いているミヤギに俺は近づき「一緒に飲まない?」と誘ってみた。

「結構です。仕事中なので」

ミヤギはノートから顔も上げずに断った。

「それ、何書いてんだ?」と俺は聞いた。

「行動観察記録です。あなたの」

「そうか。いま俺は、酔っ払ってるよ」

「そうでしょうね。そう見えます」

ミヤギはめんどくさそうにうなずいた。

実際めんくせーんだろうな、俺。

完全に酔いが回った俺は、なんだか自分が悲劇の主人公になったような気がしてきた。で、落胆の反動っていうか、双極性っていうかさ。 急にポジティブになったんだよ。得体のしれない活力が溢れてきたわけ。

俺はミヤギに向かって、高らかに宣言した。

「俺は、この三十万円で、何かを変えてみせる」

「はあ」とミヤギは興味なさそうに言った。

「たった三十万円だろうと、これは俺の命だ。 三百万や三億より価値のある三十万にしてやる」

俺としては、かなり格好良いことを言ったつもりだったね。でもミヤギはしらけっぱなしだった。

「皆、同じことを言うんですよ」

「どういうことだ?」と俺は聞いた。

「死を前にした人は、皆、極端なことを言うようになるんです。……でもですよ、クスノキさん。よーく考えてください」

ミヤギは感情のない目で俺を見すえて言った。

「三十年で何一つ成し遂げられないような人が、 たった三か月で何を変えられるっていうんですか?」

「……やってみなきゃわかんないさ」と俺は言い返したが、 実際、彼女の言ってることはどこまでも正しいんだよな。

俺はそこであることに気付いて、ミヤギに聞いた。

「なあ、あんた、もしかしてこの先三十年かけて 俺の人生に起こるはずだったこと、全部知ってんのか?」

「大体は知ってますよ。もう意味のないことですけどね」

「俺に取っちゃ相変わらず有意味だよ。教えてくれ」

「そうですねえ」とミヤギは足を崩しながら言う。

「まず一つ言えるのは、あなたが売った三十年の中で、 あなたが誰かに好かれることはありません」

「それって悲しいことだよな」と俺は他人事のように言った。

「あなたは誰のことも好きになることができず、 そんなあなたを周りの人間が好きになるはずもなく、 相互作用でどんどんあなたと他人の距離は開いて、 最終的に、あなたは世界に愛想を尽かされるんです」

ミヤギはそこでちらっと俺の目を見た。

「『それでも、いつかいいことがあるかもしれない』。 そんな言葉を胸にあなたは五十歳まで生き続けますが、結局、何一つ得られないまま、一人で死んでいきます。最後まで『ここは俺の場所じゃない』って嘆きながら」

「それって悲しいことだよな」と俺は機械的に繰り返した。

でも内心、やっぱりしっかり傷ついていた。ただ、かなり納得できる話でもあった。

さらにミヤギが続けた話によれば、俺は四十歳でバイク事故を起こすらしい。その事故で顔の半分を失い歩けなくなるとか。

かなり気のめいる話だったが、一方で、それを経験する前に死ねることを考えると案外俺はラッキーなのかもしれないと思った。

そうなんだよな、半ば期待する余地があるから五十年も無意味な人生を送ったりしちまうんだ。 完全に良いことが何もないって分かってれば、逆に何の未練もなく逝けるってもんだ。

俺は気を紛らそうとして、テレビをつけた。番組ではスポーツ特集をやっているらしかった。 まずいと思ってチャンネルを変えようとした頃には弟の顔と名前がしっかり画面上に出ていた。

俺は反射的にグラスを投げつけてたね。テレビが倒れて床に落ち、グラスの破片が飛び散る。

俺はふっと我に返りミヤギの方を見る。彼女は明らかに警戒した様子で俺のことを見ている。

「弟なんだよ」と俺は努めて明るく言ったんだが、 それが逆に本格的にイカれてる人っぽくて笑えたな。

「……弟さんのこと、あんまり好きじゃないんですね?」

ミヤギは軽蔑するような調子で言った。

「あんまりね」と俺はうなずいた。

隣の部屋から壁を殴る音がした。

割れたグラスを片付けたりなんかしていると俺の酔いはまずい感じに醒めてきた。このまま完全にアルコールが抜ければ最悪の精神状態になるのが目に見えてた。

だから俺はある人に電話をかけたんだ。

思うに、これもまた最悪の選択だったな。俺ってやつは自分で自分の人生を悪い方向に転がすことにかけては一流なんだ。

電話の相手は、高校の頃の一番の友人だった。 数か月間一度も連絡をとってなかったのに、

「今から会えないか」なんて無茶なことを言う俺に、 友人は「今からそっちにいくよ」と快く応じてくれた。

その時は、ちょっと救われた気でいたな。まだ俺のことを気に掛けてくれている人がいるんだ、って思った。

この上なく情けない話なんだけどさ、友人と会うにあたって俺にはちょっとした下心があった。

このミヤギって子、見てくれはそれなりなんだよ。 愛想はないけど、ふるまいがかわいいんだ。 その子が俺の後ろをずっとついてくるわけ。 そりゃ、それが監視員の仕事だからな。

でさ、スーパーを歩いてる最中、俺は思ったんだよ。 周りには俺たち恋人同士に見えてるんじゃないか、って。 むしろそれ以外の何に見えるって言うんだろうな?

俺は、友人がそういった勘違いをしてくれることを期待してたんだ。 かわいい子を連れてることを自慢したかったのさ。 聞いてる方が恥ずかしくなるような動機だろ?

だが俺にとっては切実だったんだ。

レストランのテーブルにつくと、ミヤギは俺の隣に座った。 俺は満足して、早く友人が来ないかとうずうずしてたね。

時計を見る。ちょっと着くのが早すぎたらしい。 友人が来るまでコーヒーでも飲んで待つことにした。

ウェイトレスが来ると俺は自分の注文を言った後、 ミヤギに向かって「あんたはいいのか?」と聞いた。

すると彼女は気まずそうな顔をした。

「……あの、最初に言いませんでしたっけ?」

「何を?」と俺は聞きかえした。

「私、あなた以外には見えてないんですよ。

声も聞こえてないし、触っても気付かないんです」

ミヤギはウェイトレスの脇腹を突っついた。たしかに、無反応だった。

俺は目線を上げてウェイトレスの顔を見た。「うわあ……」って目で俺のことを見てたね。 これはやっちまったな、と思った。しばらく恥ずかしさで顔が真っ赤だった。

こうなると、友人に女の子を自慢するという

ささやかな夢も叶わなくなったわけだ。二重にも三重にも惨めだったな。俺の場合、寿命や健康や時間なんかより惨めさを売った方がよっぽど金になりそうだ。

もう帰っちまおうかとも思ったけど、そこにちょうど友人が現れちまったんだ。俺たちは大袈裟に再会の喜びを分かち合った。半分ヤケだったな。もう正直どうでもよかったんだよ。

高校時代、俺たちは不満の塊だった。ことあるごとに二人でマクドナルドに居座って、何時間でも愚痴を言い合ったもんだった。

多分、当時の俺たちが本当に言いたかったのは「幸せになりてえなあ」の一言だったんだろう。 でもそれを口にするのが怖くて俺たちは何時間も呪詛を吐いてうさ晴らししてたんだ。

しかし、久しぶりに顔を合わせた友人はたしかに愚痴こそ言うものの、あの頃とは何かが根本的に変わってしまっていた。

なんていうか、それは現実的で妥当な愚痴なんだな。あの頃の理不尽で非現実的で的外れな愚痴とは違う。今の彼が口にするのは、バイト先の愚痴とか、彼女の愚痴とか、そういうのなんだ。

俺は耐えられなくなってきてさ。

友人の話は露骨な自慢話になっていくし、隣ではミヤギがぼそぼそ俺に話しかけてくる。俺は二人に同時に話しかけられるのが大嫌いで、そういうことをされると、頭が破裂しそうになるんだ。

で、あっさりと限界を迎えた。

まあ、ただでさえ余裕がなかったのもあったんだろうな。

気が付くと、俺はミヤギに「黙ってろ!」って怒鳴ってたんだ。店内が静まり返ったな。数秒後、一気に血の気が引いて行った。

友人に何か言われる前に、俺は金を置いて席を立った。いよいよ精神異常者みたいになってきてたな。

こりゃ三十万しかもらえないわけだ。

俺は夜道を歩いて帰った。酔いはすっかり醒め、体調は悪いくせに目は冴えまくっていた。

ちっとも眠れそうになくて、俺はテレビを見ようと思ったが、そういえば自分でグラスをぶつけて破壊したんだった。幸い音だけは出るみたいだったから、俺はそれを巨大で不親切なラジオだと思うことにした。

缶ビールを開けて、プリッツをつまみに飲む。ミヤギは俺の観察記録を書いているようだった。俺のレストランでの愚行について書いてるんだろうな。

「なあ、さっきは怒鳴って悪かった」と俺は言った。

「確かに、あんたの言う通りだったんだ。俺は適当な嘘でもついて、さっさと店を出るべきだった」

「そうですね」とミヤギはこっちを見ずに答えた。

「それを書き終えたら、一緒に飲まないか?」

「飲んで欲しいんですか?」と彼女は聞きかえしてきた。

「そりゃもうな。寂しいから」と正直に答えると、

「悪いですけど、仕事中なんで無理です」と断られた。

じゃあ最初からそう言えよって話だよな。

夜が明けてきて小鳥のさえずりが聞こえ始める。ミヤギは一分寝て五分起きるみたいなサイクルで俺のことを監視しているようだった。なんつうか、タフだよな。俺にはとてもできそうもない。

夕暮れになって、俺は目を覚ました。

にわかには信じられないかもしれないが、もともと俺はかなり真面目な性格なんだ。十二時に寝て六時に起きるのが基本でさ。夕焼けに照らされて目覚めるってのは新鮮な感じだった。

部屋のすみを見ると、ミヤギは変わらずそこにいた。いつの間にかシャワーを浴びたらしく、近くを通った時にせっけんの匂いがした。

同じ俺の部屋なのに、ミヤギのいる周辺だけは まったく異質の空間みたいな感じがしたな。

俺は例のリストを眺め、今日は遺書を書くことに決めた。近所の商店で便箋を買ってくると、俺は万年筆を手に取った。

手紙なんて書くのは久しぶりだな、と思った。 最後にまともな手紙を書いたのはいつだろう? 俺は記憶を探る。おそらくそれは、小六の夏。

あの夏、クラスの皆でタイムカプセルを埋めたんだ。 銀色の球形のカプセルに、当時の宝物ひとつと未来の自分への手紙を入れたんだよな。 皆、一生懸命書いてたな。案外面白いんだよ、あれ。

二十歳になったらそれを掘り出そうって決めてたけど、今のところ何の連絡もきていなかった。 俺だけに連絡がきてないってことも考えられるが、十中八九、係のやつが忘れちまったんだろう。

そこで俺は思ったんだよ。どうせ誰も掘り出さないなら、俺一人でタイムカプセルを掘り出してやろう、ってさ。

そういうノスタルジックでロマンチックで、

甘い感傷に浸らせてくれるものを俺は求めていた。 夜中になると、俺は電車で小学校に向かった。 スコップを納屋から拝借してくると、俺は体育館の裏に行って穴を掘りはじめた。

すぐに見つかるもんだと思ってたんだけど、案外埋めた場所って覚えてないもんでさ。

ミヤギは、穴を掘り続ける俺の近くに座ってぼうっと眺めてた。なんとも奇妙な光景だっただろうな。

結局タイムカプセルが見つかったのは穴を掘りはじめてから三時間後くらいで、その頃にはスコップを握る両手はマメだらけ、身体は汗まみれ、靴は泥だらけだった。

街灯の下に行って、俺はタイムカプセルを開けた。 自分の手紙だけ取りだそうと思ってたんだが、ここまで苦労したんだしいっそのこと全部に目を通しちまおうって俺は考えた。

顔も覚えてないようなクラスメイトの手紙を開く。その瞬間まで俺は完全に忘れてたんだが、手紙には、最後にこういう欄があったんだよ。

「一番のお友達は誰ですか」っていう欄がさ。

これまでの流れからいって予想はつくけど、

そこに俺の名前を書いてる奴は、一人もいなかった。

なるほどね、と俺は妙に納得してしまった。

一番輝いて見えた小学時代さえ、この有様だ。

ただ、ひとつだけ救いはあった。

例の幼馴染だけどさ、あの子だけは「一番のお友達」にこそ指名しなかったけど、手紙の文中で俺の名前を出してくれてたんだ。 いや、これを救いと捉えるのも相当むなしい話だが。

自分の手紙と幼馴染の手紙だけ抜きとると、俺はタイムカプセルを元あった場所に埋め直した。 去り際、ミヤギがタイムカプセルを埋めた場所の上に立って、地面を足でとんとんと均していたことを覚えてる。

終電は数時間前に駅を通過していた。俺は駅の硬い椅子に寝そべって始発を待った。異様に明るいし虫も多くて、寝るには最悪の環境だったな。

一方、ミヤギは全然平気そうでさ。

スケッチブックを取りだして構内の様子を描いていた。 仕事の一環かな、と考えながら俺は眠りについた。

始発の数時間前に目を覚ました俺は、外に出て自販機でアイスコーヒーを買った。変な場所で寝たせいで、体中があちこち痛んだ。

まだ辺りは薄暗かった。

構内に戻ると、ミヤギが伸びをしていた。なんか、人間らしい一面をようやく見た気がしたな。ああ、この子も伸びとかするんだ、って感心した。

余命三ヶ月っていう状況のせいかもしれない。 たび重なる失望のせいかもしれないし、 連続した緊張、疲労や痛みのせいかもしれない。 起きたばかりで寝ぼけてたのかもしれないし、単にミヤギという子が好みだったからかもしれない。

まあ何でもいい。とにかくその時、不意に俺は、 ミヤギに「酷いこと」をしてやりたくなったんだ。 自暴自棄の手本って感じだよな。どうしようもない。

ミヤギに詰め寄って、俺は聞いた。「なあ監視員さん」

「なんでしょうか」とミヤギは顔をあげた。

「たとえば今ここで、俺があんたに乱暴なんかしたら、本部とやらが俺を殺すまで、どれくらいかかる?」

彼女は特に驚かなかった。さめた目で俺を見て、

「一時間もかからないでしょうね」とだけ答えた。

「じゃあ、数十分は自由にできるってわけか?」

そう俺が聞くと、彼女は俺から目を逸らして、

「誰もそんなこと言ってませんよ」と言った。

しばらく沈黙が続いた。不思議なことに、ミヤギは逃げ出そうとはしなかった。ただじーっと、自分を膝を見つめてた。

「……危険な仕事なんだな」

そう言って、俺はミヤギの二つ隣に座った。

彼女は俺から目を逸らしたまま、

「ご理解いただけたようで何よりです」と言った。

俺の神経の昂りはすっかり収まっていた。ミヤギの諦めきったような目を見ていたらこっちまで悲しくなってきたんだよ。

「俺みたいなやつ、少なくないんだろう?死を前にして頭をおかしくしちまって監視員に怒りの矛先を向けるようなやつ」

ミヤギは首をゆっくり振った。

「あなたはどちらかと言えば楽なケースですよ。もっと極端な行動に出る人、たくさんいましたから」

「……何で、そんな危ない仕事を、あんたみたいな若い子がやってるんだ?」

俺がそう聞くと、ミヤギはぽつぽつと話し始めた。話によると彼女には借金があるらしかった。原因は彼女の母親にあるのだという。

なんでも、たいした人生でもないくせに、借金までして寿命を買いあさったらしい。それなのに病気であっさり死んでしまって、そのツケをこの子が払うことになったんだとか。清々しいくらい胸糞悪い話だったな。

「借金ですが、私の寿命を全部売って、ようやく返しきれるかどうかって額なんです。あとちょっとで勝手に寿命を売られるところだったんですが、 諦めかけた時、この監視員の仕事を紹介されたんですよ。この仕事、大変ですが稼ぎはすごくいいんです。

このまま続けていれば、私が五十歳になる頃には全額返しきれてるんじゃないかと思います」

”五十歳になる頃には”、か。これもまた、げんなりさせられる話だった。彼女はまるでそれを救いのように話してたが、自分が何かしたわけでもないのに、あと数十年、俺みたいなやつの相手をし続けなきゃいけないわけだろ?

「そんな人生、全部売っちまえばいいじゃねえか。 五十まで生き残れる保証なんてないんだろ?」

俺がそう言うと、彼女は少し困ったような顔をした。

「たしかに、実際、監視員の仕事をしてる中で 監視対象に殺されてる人も、たくさんいますね。 でも……ほら、簡単には割り切れませんよ。いつかいいことあるかもしれないじゃないですか」

「そう言ってて、五十年間何一つ得られないまま死んでいった男のことを俺は一人知ってるぜ」

「それ、私も知ってます」とミヤギはちょっとだけ微笑んだ。

なんだか嬉しかったな。俺の冗談で彼女が笑ってくれたことが。

始発電車に乗り、スーツや制服に囲まれた中、俺は周りの目も気にせずミヤギに話しかけた。

「タイムカプセルの中でさ、『一番のお友達』に俺を選んでくれてる人はいなかったけど、 それでもやっぱり幼馴染のあの子だけは俺の名前を手紙の中で出してくれてたんだよ」

もちろん周りにはミヤギの姿が見えていないから、ひとりごとを言っているように見える。完全に不審者だ。

ミヤギは心配そうな顔で言う。

「あの、皆見てますよ。変な人だと思われてますよ」

「いいよ。思わせとけよ。実際、変な人なんだから。……それでさ、あらためて駅で考えたんだけど、やっぱり俺にとってはたとえどんなに変わり果てようと幼馴染のあの子は、俺の人生そのものなんだよ」

「それで、どうしようっていうんですか?」

「最後に一度だけ、彼女に会って話がしたい。そしてさ、俺に人生を与えてくれた恩返しに、俺の寿命を売って得た三十万を彼女に渡したいんだ。多分あんたは反対するだろうけど、別にいいだろ、俺の寿命を売って稼いだ俺の金なんだから」

「……そこまで言うなら、別に反対しませんよ。でも電車内で話すのは、もうやめましょう。見てるこっちが恥ずかしいですよ」

とは言いつつも、ミヤギは妙に楽しそうだった。

家には帰らず俺はそのまま街へ向かった。トーストとゆで卵をコーヒーで胃に流し込むと、俺は深呼吸して、幼馴染に電話をかけた。

夜だったら会える、と幼馴染は言ってくれた。好都合だった。こちらも色々と準備があるからな。

俺はミヤギの手を取って、ぶんぶん振りながら歩いた。道行く人には一人でそうやってるように見えただろうけど、俺は気分がハイになってたからどうでもよかった。ミヤギは困ったような顔で俺に引っ張られるままにしてたな。

まず美容室へ向かい二時間後に予約を入れた俺は、ショップに行って服と靴を買い、その場で着替えた。新品の服を買うのなんて数年ぶりだった。

新しい服に着替えて髪を切った俺の姿はなんだか俺じゃない誰かみたいだった。

ミヤギもまったく同じ感想をくれた。

「なんか、まるで別の人みたいですね」

正直言って嬉しかったな。俺、悪くないじゃん!

待ち合わせまで暇だったから、俺はミヤギに頼んで、幼馴染と会ったときの予行演習をすることにした。昨日友人と会った時のレストランに入り、訓練を始める。正面に座ったミヤギに向かって俺は微笑み、

「どうだミヤギ、感じ良く見えるか?」と聞く。

周りから見れば、壁に向かって微笑みかける変人だ。ミヤギはサンドイッチをもそもそ食べながら答える。

「んー、ちょっと笑顔がこわばってますね。

普段笑わないから、表情筋が弱ってるんですよ」

「そうか。なら、夜までに鍛え上げてみせるさ」

俺は何度も笑ったり真顔になったりを繰り返す。

「……あなた、なんていうか、おもしろいですね」

「ああ。魅力的だろ?惚れないように気をつけろよ?」

「気を付けます。しかし、浮き沈みの激しい人ですね」

実際、かなり浮かれてたんだよ、その時は。

電話してから幼馴染に会うまで大体八時間くらい間があったんけど、俺には二十七時間くらいに感じられたね。五秒に一回くらい腕時計を見てた気がする。

ぎりぎりまで俺はミヤギで訓練してた。どうすりゃ相手に良い印象を与えられるか、カフェのすみで、二人で試行錯誤してたな。

――そうして、ついに待ち合わせの時間が来た。 待ち合わせ場所にやってきてくれた幼馴染を見て、俺はその外見や口調の変化にとまどいつつも、笑い方や仕草が変わっていないのに気づいて、それだけで本当に電話してよかったと思った。

「ひさしぶり」と彼女は言った。「元気にしてた?」

「元気にしてたよ、そっちは?」と俺は答えたが、余命三か月の俺が元気だって言うのも笑えるよな。

外見にそれなりに金をかけたおかげか、幼馴染は俺のことを気に入ってくれたみたいだった。

「ずいぶん変わったね」と言いながらべたべたしてくる。

なんていうかさ、いける感じの雰囲気だったんだよ。訓練の成果と、未来を知ってるがゆえの余裕もあって、俺はかなりの好印象を幼馴染に与えることに成功してた。

しかし俺ってやつはさ、本当に物事を台無しにしないと気が済まないらしいんだよな。

近況を語りたがる幼馴染の話をさえぎって、なんと俺は寿命を売った件について話し始めたんだよ。

「あのさ、俺、余命三か月しかないんだよ」って

同情を引くような調子で語りはじめたんだ。

心のどこかで俺は、この幼馴染なら、

俺の話を真面目に聞いてくれる、俺に深く同情し、

慰めてくれるって信じてたんだろうな。

でも話が始まって五分とたたずに、幼馴染は退屈そうな反応を示し出した。馬鹿にしたような顔で、「ふーん?」とか言うのな。

もちろん間違ってるのは俺で、悪いのは俺なんだ。俺だって突然、寿命を買い取る店がどうだの監視員がこうだの言われても、信じないだろう。大笑いされなかっただけマシだと思う。

幼馴染は「ちょっと失礼」と言って立ち上がった。トイレにでも行くんだろう、と俺は思ってた。その直後に、注文した料理が二人分届いた。俺は早く続きを話したくて仕方なかったな。

でも幼馴染は戻ってこなかった。

料理が冷めるまで待ったけど、戻ってこなかった。

また俺は”やっちまった”わけだ。

俺は冷めたパスタをゆっくり食べた。しばらくすると、ミヤギが正面に座って幼馴染の分のパスタをぱくぱく食べ始めた。

「冷めてもおいしいですね」とミヤギは言った。

俺は何も言わなかった。

店を出ると、俺は駅前の橋に向かった。そしてそこで、幼馴染に渡すはずだった三十万円の入った封筒を胸から取り出し、道行く人に一枚ずつ配って歩いた。

「やめましょうよ、こんなこと」とミヤギが言う。

「別に人に迷惑はかけてないだろ」と俺は返す。

どいつもこいつも渡されたのが金だと分かると、 薄っぺらい礼を言うか怪訝そうな顔をした。 断る奴もたくさんいたし、もっとよこせと言う奴もいた。

三十万はあっという間になくなった。

俺は勢い余って、財布の金にまで手を出した。

きっと俺は、誰かに構って欲しかったんだろうな。

「何かあったんですか?」とか聞いて欲しかったんだろう。

三十三万円配り終えると、俺は道の真ん中で立ち尽くした。道行く人が不快そうに俺のことを眺めていた。

タクシー代も残っていなかったので、俺は建物の陰になっているベンチで寝た。真上に傾いた街灯があって、しょっちゅう点滅していた。ミヤギも正面のベンチで寝るようだった。女の子にひどいことさせてんなあ。

「先に帰っていいんだぞ?」

俺がミヤギにそう言うと、彼女は首をふった。

「そしたらあなた、自殺とかしそうですから」

眠りにつくまで、俺は真上に広がる星空を眺めていた。

最近、夜空を見る機会が増えた。七月の月は綺麗だ。俺が見逃していただけで五月も六月もそうだったのかもしれない。

俺はいつものように、眠りにつく前の習慣を始めた。頭の中に、いちばんいい景色を思い浮かべる。俺が本来住みたかった世界について、一から考える。

五歳くらいからずっとやってる習慣だった。ひょっとしたら、この少女的な習慣が原因で俺はこの世界に馴染めなくなったのかもな。

六時ごろに目を覚まして俺は歩いてアパートまで帰った。街の外れでは朝市をやっていて、早朝から騒がしかった。

四時間くらい歩いて、ようやくアパートについた。一昨日の件もあって両腕両足が悲鳴を上げてたな。もっと安らかに生きることはできないのかね、俺は。

シャワーを浴びて着替えると、寝なおした。ベッドだけは俺を裏切らない。俺はベッドが大好きだ。

さすがのミヤギもそれなりに疲れたらしく監視もほどほどに、すぐシャワーを浴びて、部屋のすみっこでうつらうつらしていた。

机の上には、書きかけの遺書があったが、続きを書くのは何だか馬鹿らしかった。誰も俺の言葉なんて気にしちゃいないんだ。

会いたい人もいないし、そうなるといよいよすることがなくなってしまった。散財しようにも金は昨日配りきってしまったし。

「何か他に好きなことはないんですか?」

ミヤギは俺にを励ますように、そう訊ねた。

「やりたかったけど、我慢してたこととか」

そこで割と真剣に考えてみたんだけど、俺、どうやら好きなことがあんまりないらしい。あれ、今まで何を楽しみに生きたんだっけ?

かつて趣味だった読書も音楽鑑賞も、あくまで「生きていくため」のものだったんだよな。人生に折り合いをつけるために音楽や本を用いてたんだ。

いざ余命三か月となると、何もしたいことがなかった。薄々感づいてはいたけど、俺って生き甲斐がないんだ。寝る前の空想だけを楽しみに生きてたとこがあるな。

監視員は言う。

「別に無意味なことだっていいんですよ。私が担当した人の中には、余命二か月すべてを走行中の軽トラックの荷台に寝そべって空を見上げることに費やした人もいるんです」

「のどかだな、そりゃ」と俺は笑った。

さらにミヤギは、こう言った。

「考える時は、外に出て歩くのが一番です。

お気に入りの服に着替えて、外に出ましょう」

いいこと言うじゃないか、と俺は思った。段々とこの子は俺に優しくなってきているように見える。 もしかすると、監視員は監視対象との接し方が決まっていて、彼女はそれに従っているだけなのかもしれないが。

俺はミヤギのアドバイスに従って外を歩いた。ものすごい日差しが強い日だったな。髪が焦げそうだった。すぐに喉が渇いてきて、俺は自販機でコーラを買った。

「あ」、と俺は小さく声を漏らした。

「どうしました?」

「……いや、実にくだらない事なんだけどさ。好きなもの、一つだけあったことを思いだした」

「言ってみてください」

「俺、自動販売機が大好きなんだよ」

「はあ。……どこら辺が好きなんですか?」

「なんだろな。具体的には自分でも分からないんだが、子供の頃、俺は自動販売機になりたかったんだ」

きょとんとした顔でミヤギは俺の顔を見つめる。

「あの、確認ですけど、自動販売機って、

コーヒーとかコーラとか売ってるあれですよね?」

「ああ。それ以外も。焼きおにぎり、たこ焼き、アイスクリーム、ハンバーガー、アメリカンドッグ、フライドポテト、コンビーフサンド、カップヌードル……自販機は実に様々なものを提供してくれる。日本は自販機大国なんだよ。発祥も日本なんだ」

「んーと……個性的な趣味ですね」

なんとかミヤギはフォローを入れてくれる。

実際、くだらない趣味だ。見方によっては、

鉄道マニアを更に地味にしたような趣味。くだらねー人生の象徴だよなあ、と自分で思う。

「でも、なんとなく分かる気はします」

「自販機になりたい気持ちが?」

「いえ、さすがにそこまでは理解不能ですけど。自販機って、いつでもそこにいてくれますから。金さえ払えば、いつでも温かいものくれますし。割り切った関係とか、不変性とか、永遠性とか、なんかそういうものを感じさせてくれますよね」

俺はちょっと感動さえしてしまった。

「すげえな。俺の言いたいことを端的に表してるよ」

「どうも」と彼女は嬉しくもなさそうに言った。

そういうわけで、俺の自販機巡りの日々が始まった。

原付に乗って、田舎道をとことこ走る。自販機を見かけるたびに何か買って、ついでに安物の銀塩カメラで撮影する。別に現像する気はないんだけど、何となくな。

そんな無益な行為を数日間繰り返した。こんなくだらない趣味一つをとっても、俺よりもっと本格的にやっている人が沢山いて、その人たちには敵わないってことも知っている。

でも俺は一向に構わなかった。なんか生きてる感じがした。

俺のカブ110は幸いタンデム仕様だったので、ミヤギを後ろに乗せて色んなところをまわれた。ようやくやりたいことが見つかって、天気にも恵まれて、俺の生活は一気にのどかなものに変わった。

原っぱに腰を下ろして、俺は煙草を吸っていた。隣では、ミヤギがスケッチブックに絵を描いていた。

「仕事しなくていいのか?」と声をかけると、ミヤギは手を止めて俺の方を向いて、

「今のあなた、悪いことしなさそうですから」と言った。

「そうかねえ」と言うと、俺はミヤギのそばに行き、彼女が線で画用紙を埋めていく様を眺めた。なるほど、絵ってそうやって描くのか、と俺は感心していた。

「でも、そんなに上手くないな」と俺がからかうと、

「だから練習するんです」とミヤギは得意気に言った。

「今まで書いた奴、見せてくれ」と頼むと、彼女はスケッチブックを閉じて鞄に入れ、

「さあ、そろそろ次に行きましょう」と俺を急かした。

ある日、俺が目を覚まして部屋のすみを見るとそこにいつもの子の姿はなくて、代わりに見知らぬ男がかったるそうに座っていた。

「……いつもの子は?」と俺はたずねた。

「休日だよ」と男は答えた。「今日は、俺が代理だ」

そうか、監視員にも休日とかあるんだな。

「へえ」と俺は言い、あらためて男の姿を眺めた。露天商とかにいそうな感じの、うさんくさい男だった。すげえ遠慮のない感じで存在感を撒き散らしてたな。

「お前の寿命、最安値だったらしいな?」

男は露骨に俺をからかうような調子で言う。

「すげえすげえ。そんなやついるんだな」

「すげえだろ? なり方を教えてやろうか?」

俺が淡々と返すと男はちょっと驚いたような顔をした。

「……へえ、お前、結構余裕あるみたいだな?」

「いや、しっかり今ので傷ついてる。強がりさ」

男は俺の発言が気に入ったらしく、

「お前みたいな奴、嫌いじゃないよ」と笑った。

監視員が男になったことによって、俺はかなりリラックスできるようになった。

男はそんな俺の様子を見て、言う。

「女の子が傍にいると落ち着かねえだろ?

なんかキリっとしたくなるよな。分かるぜ」

「そうだな。あんたの傍は落ち着くよ。あんたにならどう思われようと構わないから」

俺は『ピーナッツ』を読みながらそう答えた。ミヤギの前では恥ずかしくて読む気になれなかった本。そう、実を言うと、俺はスヌーピーが大好きなんだ。

「そうだろうな。……ああそうだ、ところでお前結局、寿命を売った金は何に使ったんだ?」

そう言うと、男は一人でくっくっと笑った。

「一枚ずつ配って歩いた」と俺は答えた。

「一枚ずつ?」と男はいぶかしげに言った。

「ああ。一万円を三十枚、三十人に一枚ずつ。本当は人にあげるつもりだったが、考えが変わった」

すると男はタガが外れたように笑い出したんだ。それから、俺にこんな質問をしてきたんだよ。

「なあ、お前――まさか、本当に自分の寿命が三十万だって言われて信じちゃったのか?」

「どういうことだ?」と俺は男に聞いた。

「どういうも何も、言葉そのままの意味だ。

本当に自分の寿命、三十万だと思ったのか?」

「そりゃ……最初は、安すぎると思ったが」

男は床を叩いて笑う。俺は不愉快になってきた。

「そうかそうか。俺からはちょっと何も言えないが、まあ、今度あの子に会ったら、直接聞いてみな。『俺の寿命、本当に三十万だったのか?』ってな」

次の朝、アパートにやってきたミヤギに俺は男に言われた通りのことを訊ねてみた。

「もちろんですよ」と彼女は答えた。

「残念ですが、あなたの価値、そんなものなんですよ」

「ふうん」と俺が小馬鹿にしたような態度で言うと、ミヤギは俺が何かに気付いていることを察したらしく、

「代理の人に、何か言われたんですか?」と俺に聞いた。

「俺はただ、もう一回確認してみろって言われただけさ」

「……そんなこと言っても、三十万は三十万ですよ」

あくまでしらを切り通すつもりらしいんだな。

「最初は、あんたがネコババしてると思ったんだ」

ミヤギは、ちょっとだけ目を見開いてこちらを見た。

「俺の本来の値段は三千万とか三億なのに、

あんたがこっそり横領したんだと思ってた。

……でも、どうしても信じられなかったんだよな。 何か俺は根本的な勘違いをしてるんじゃないか、と思った。それで一晩考え続けて、ふと気づいたんだ。

――そもそも俺は、前提から間違ってたんだな。

どうして寿命一年につき一万円という値段が、最低買取価格だなんて信じてたんだろう?どうして人の一生が本来数千万や数億で売れて当たり前だなんて信じてたんだろう?

多分よけいな前知識がありすぎたんだな。

自分の勝手な常識に物事を当てはめ過ぎた。

俺はもっと、柔軟に考えるべきだったんだ」

俺は一呼吸おいて、それから言った。

「なあ、どうして見ず知らずの俺に、

あんたが三十万も出す気になったんだ?」

ミヤギは俺の言葉の意味を分かっているみたいだったが、

「何を言ってるのかさっぱりわかりませんね」と言って、

いつものように部屋のすみに腰を下ろした。

俺はミヤギが座っている位置の対角線上にある部屋のすみに移動して、彼女と同じように三角座りをした。ミヤギはそれを見て、ちょっとだけ微笑んだ。

「あんたがしらんぷりするなら、それでもいい。でも一応言わせてもらうよ。ありがとう」

俺がそう言うと、ミヤギは首をふった。

「いいんですよ。こんな仕事ずっと続けてたら、どうせ借金を返し終わる前に死んじゃうんです。仮に払い終えて自由の身になったとしても、楽しい人生が約束されてるわけでもないし。だったらまだ、そういうことに使った方がいいんです」

「実際のとこ、俺の価値っていくらだったんだ?」

ミヤギは「……三十円です」と小声で言った。

「電話三分程度の価値か」と俺は笑った。

「悪かったな、あんたの三十万、あんな形で使っちまって」

「そうですよ。もっと自分のために使って欲しかったです」

怒ったような言い方をしつつも、ミヤギの声は優しげだった。

「……でも、気持ちはすごくよくわかるんですよ。私があなたに三十万円与えたのも、似たような理由からですから。さみしくて、かなしくて、むなしくて、自棄になったんですよ。それで、極端な利他行為に走ったりしたんです」

「でも、落ち込むことなんてありませんよ。少なくとも私にとって、今のあなたは三千万とか三億の価値がある人間なんです」

「変な慰めはよしてくれよ」と俺は苦笑いした。

「本当ですよ」とミヤギは真顔で言う。

「あんまり優しくされると、逆に惨めになるんだ。あんたが優しいことは十分に知ってる。だから、もういい」

「うるさいですね、だまって慰められてくださいよ」

「……そんな風に言われたのは初めてだな」

「というか、これは慰めでも優しさでもないんです。私が言いたいことを勝手に言ってるだけですよ」

「……あなたにとっては、何でもないことでしょうけどね」

そう言うと、ミヤギはちょっと恥ずかしそうにうつむく。

「私、あなたが話しかけてくれることが、嬉しかったんですよ。人前でも構わずに話しかけてくれることが、すごく嬉しかったんです。私、ずっと透明人間だったから。無視されるのが、仕事だったから。普通の店でお話しながら食事したり、一緒にショッピングしたり、そんな些細なことが、私にとっては夢みたいでした。場所も状況も選ばず、どんな時も一貫して私のことを”いる”ものとして扱ってくれた人、あなたが初めてだったんですよ」

「あんなことでよけりゃ、いつでもやってやるよ」

そう俺が茶化すと、ミヤギはいじらしい笑顔を浮かべた。

「そうでしょうね。だから、好きなんです。あなたのこと」

いなくなる人のこと、好きになっても、仕方ないんですけどね。そう言って、彼女はさみしそうに笑った。

俺はしばらく口がきけなかったな。

ほとんど処理落ちしたみたいになっちまって。

気を抜いたらぼろぼろ泣いちまいそうだったな。おいおい、このタイミングでそれは卑怯だろ、って。

この時、無意味で短い俺の余生に、ようやくひとつの目標ができる。ミヤギの一言は、俺の中にすさまじい変革をもたらしたんだ。

俺は、どうにかして、ミヤギの借金を全部返してやりたいと思った。

一生が百円に満たないこの俺が、だ。

身の程知らずにもほどがあるよな。

生活は一気に変わった。

俺は自分に言い聞かせた。考えろ、考えろ、考えろ。どうすれば残り数ヶ月で彼女の借金を返せる?どうすれば彼女が安全に暮らしていけるようになる?

こういうときに宝くじを買ったり賭け事をしてもうまくいかないってことは分かっていた。いつだって、賭け事は金があまってるやつが勝つし、宝くじは変化を望んでないやつが当たるんだよ。

俺はかつてのミヤギのアドバイスに従い、ひたすら街を歩きながら考えたんだ。次の日も、その次の日も、その次の日も。どこかに、自分にぴったりな答えが転がってると期待して。

その間、口にはほとんど物を入れなかったな。空腹がある一定のラインを越えると頭が冴え渡ることが分かったからだ。

ミヤギはそんな俺のことを心配してか、

「ねえ、自販機めぐりに戻りましょうよ」と何度も言った。

「私も自販機見るの好きになっちゃったんです。あなたの背中にしがみついてるのも、好きだし」

それでも俺は歩き続け、考え続けた。視野はどんどん狭まって、思考も偏っていって、とてもアイディアなんか思いつく状態じゃなかったな。

気が付くと、以前よく訪れていた古書店の前にいた。俺は店長の爺さんの顔が恋しくなって、中に入った。

爺さんはいつも通り、野球中継を聞きながら本を読んでいた。俺はこの数十日で起きた一連の出来事を彼に話したかったが、そんなことしたら爺さんが罪悪感を覚えるかもしれないから結局あの店には行かなかったふりをすることにした。

何気ない会話を二十分くらい交わした。会話は全然噛み合ってなかったんだが、それでも俺は独特の安らぎを覚えたな。

去り際、俺はさりげなく爺さんに訊ねた。

「自分の価値を高めるには、どうすればいいと思います?」

爺さんはラジオのボリュームを落とした。

「そうさな。堅実にやる、しかねえんじゃないか。それは俺には出来なかったことなんだけどな。なんつうかな、結局、目の前にある『やれること』を一つ一つ堅実にこなしていくこと以上にうまいやり方はねえんだ。

――だが、それよりももっと大切なことがある。それは『俺みたいな人間のアドバイスを信用しない』ってことだ。成功したことがないくせに成功について語っちまうようなやつは、自分の負けを認めたがらないクズばっかりだからな」

古書店を出た俺はその流れで、いつも通っていたCDショップに足を運んだ。店員の兄ちゃんには、爺さんについたのと同じ嘘をついた。

しばらく最近聴いたCDの話をした後、俺はこう聞いた。

「限られた期間で何かを成し遂げるには、どうすればいいんでしょうね?」

「人を頼るしか、ないんじゃないっすかね」と彼は言った。

「だって、自分一人の力じゃ、どうにもならないんでしょう?と来たら、他人の力を借りるしかないじゃないですか。俺、個人の力ってのをそこまで信用してないんすよ」

参考になるんだかならないんだか分からないアドバイスだったな。外ではいつの間にか、夏特有の大雨が降ってた。俺が店を出ようとすると、さっきの兄ちゃんが傘を貸してくれた。

「よく分かんないけど、何か成し遂げたいなら、まず健康は欠かせませんからね」とか言ってさ。

俺は傘をさして、ミヤギと並んで帰った。小さい傘だったからお互い肩がびしょ濡れになった。

傍から見たら俺は、見当違いな位置に傘をさしてる馬鹿に見えただろうな。

「こういうの、好きだなあ」とミヤギが笑う。

「どういうのが好きなんだ?」と俺は聞きかえす。

「周りには滑稽に見えるかもしれないけど、あなたが左肩を濡らしてることにはすっごく温かい意味がある、ってことです」

「そうか」と俺ははにかみながら言った。

「恥知らずの、照れ屋さん」とミヤギは俺の肩をつついた。

すれ違う人たちが俺のことを不審そうに見ていた。そこで、俺はあえてミヤギと話し続けてやった。ここまでくると異常者扱いされるのが逆に楽しかったし、何より、こうすることでミヤギは喜んでくれるから。

俺が滑稽になればなるほど、ミヤギは笑ってくれるから。

商店の軒先で雨宿りしていると、知った顔に出会った。同じ学部の、挨拶程度は交わす仲の男だ。そいつは俺の顔を見ると、怒ったような顔で近づいてきた。

「お前、最近いったいどこで何してたんだ?」

俺はミヤギの肩に手をおいて、言った。

「この子と遊び回ってたんだよ。ミヤギっていうんだ」

「笑えねえよ」と彼は不快そうな顔をして言った。

「あのな、クスノキ。前から思ってたが、お前病んでるんだよ。人と会わないで自分の殻にこもってるから、そういうことになるんだ」

「あんたがそう思うのも、無理はないよな。

俺があんたの立場だったら同じ反応を示したと思う。でも、確かにミヤギはここにいるんだよ。その上、かわいいんだ」

俺はそう言って一人で大笑いした。

彼はあきれた顔をして去っていったな。

通り雨だったらしく、雨はすぐにやみ始めた。空には、うすぼんやりと虹が浮かんでいたな。

「あの、さっきの……ありがとうございます」

ミヤギはそう言って俺に肩を寄せた。

”堅実に”、か。

俺は古書店の爺さんのアドバイスを思い出していた。

考えてみれば、俺にはできる事があるんだよな。『借金を返す』って考えに縛られてたけどさ、こうやって俺が周りに不審者扱いされることだけでも彼女はずいぶん救われるらしいじゃないか。

そうなんだよ。俺は彼女に、確実な幸せを与えられるんだ。目の前にやれることがあるのに、どうしてそれをやらない?

バスに乗って、俺たちは湖に向かった。そこで俺がやらかしたことを聞いたら、大半の人間は眉をひそめるだろうな。

周りには一人客に見えているのを承知で、俺は「あひるボート」に乗ってやったんだ。

係員の男が「一人で?」という顔をしたので、俺は彼には見えていないミヤギに向かって、

「さあ、行こうぜ」とか声をかけてやった。係員、半分怯えたような目をしてたな。

ミヤギはおかしくてしかたがないらしく、ボートに乗っている間もずっと笑っていた。

「だって、成人男性一人であひるボートですよ?」

「なんか、一つの壁を越えた気がするね」と俺は言った。

一人あひるボートの後も俺は、一人観覧車、一人メリーゴーランド、一人水族館、一人シーソー、一人プール、一人居酒屋、とにかく一人でやるのが恥ずかしいことは大体やったな。

どれをやるにしても、俺は積極的にミヤギに話しかけた。頻繁に彼女の名前を呼び、手をつないで歩いた。

段々と、俺は不名誉な感じの有名人になっていった。俺の顔見るだけで指差して笑う人も、かなりいたな。

ただ、幸運なことに、俺はいつでも幸せそうな顔をしてたから、俺を見て逆に楽しい気分になる人もそこそこいたらしいんだ。

そして、俺の行為をパフォーマンスだと思い込む人も増え始めたんだな。俺のこと、腕の立つパントマイマーだと褒めちぎるやつもいた。

逆に、「ミヤギさんは元気?」とかたずねてくる人も現れ始めてさ。そう、徐々にだが、ミヤギの存在は受け入れられ始めたんだよ。

もちろん皆、透明人間の存在を本気で信じたわけじゃなくて、なんつーか、俺のたわごとを共通の“お約束”として扱い、俺に話を合わせてくれるようになった、って感じ。

俺は「可哀想で面白い人」扱いを受けるようになったんだ。

この夏、俺はこの街で、一番のピエロだったんじゃねーかな。良くも、悪くも。

そうそう、居酒屋で一人乾杯をしてたとき、俺は隣の席の男に声を掛けられたんだ。

「あのときの人ですよね?」とか言われた。

こっちは向こうに見覚えがなかったんだが、

そのいかにも音大生って感じの男は、どうやら、あの日俺が一万円を配ったうちの一人らしかった。

「最近、あなたの噂をよく聞きますよ。まるで隣に恋人がいるかのようにふるまう、一人で幸せそうにしている男の人の噂」

「そんなやつがいるんですねえ」と俺は言い、

「聞いたことある?」とミヤギにふった。

ミヤギは「知りませんねー」と言って笑った。

男はそんな俺の様子を見て、苦笑いする。

「……あの、僕には何となく分かるんですよ。あなたの一連の行動には、深いわけがあるんでしょう?よかったら、僕に話してくれませんか?」

そんな風に聞いてくれた人は初めてだったな。俺は彼の手を取って、深く礼を言った。

それから話したんだよ、今までのこと。貧乏だったこと。寿命を売ったこと。監視員のこと。親のこと。友人のこと。タイムカプセルのこと。未来のこと。幼馴染のこと。自販機のこと。

そして、ミヤギのこと。

話の途中、俺はつい口を滑らせて、こんなことを言った。

「本人に直接言ったことはないんですけどね、俺、ミヤギのこと、自分でもどうしたらいいのか分からないくらい、深く愛してるんですよ」

隣にいた本人は酒をこぼしそうになってたな。だってその通り、俺が直接ミヤギに対して

「愛してる」なんて言ったことは一度もなかったから。

ミヤギの反応が面白くて、俺は笑い転げたな。

「だからこそ、三十万を無駄に使ってしまったこと、そして彼女を疑ってしまったことへの償いがしたいし、何より彼女の借金を少しでも減らしてやりたいんです。あの子には、こんな危ないことを続けさせたくないんですよ」

でも、俺が真面目になればなるほど、世界はしらけるんだ。

男はうさんくさそうな顔をしてたね。俺の話なんて、ちっとも信じちゃいなかったんだ。

多分こいつは、話でも聞いてやれば、また俺が金をくれるとでも思ってたんだろうな。

男が去り、俺が帰り支度を始めると、今度は後ろに座っていたおっさんに声を掛けられた。

「すみません。盗み聞きする気はなかったんですけど、さっきの話、つい最後まで聞かせてもらっちゃいました」

安物のスーツを着たおっさんは、頭をかきながらそう言った。

「……で、率直に、どう思いました?」と俺は聞いた。

「その子、きっと、そこにいるんでしょう?」

おっさんはミヤギのいるあたりを見ながら言った。

「おお、よく分かりますね。そうなんですよ、かわいいんです」

俺はそう言ってミヤギの頭を撫でた。ミヤギはくすぐったそうに目をつむっていた。

「やっぱりそうですよね。……あの、申しわけないのですが、少々お二人の時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

”お二人”の箇所を強調して、おっさんは言った。

おっさんは言う。

「自分語りになってしまいそうですから手短に済ませますが、クスノキさん、私もあなたと似たような経験があります。ちょうど私があなたくらいの歳だった頃、三歳上の兄が、

まさにミヤギさんがあなたにそうしてくれたような方法でどん底にいた私のことを救ってくれたんです。やはり、私もあなたと同じように、決意しました。どうにかして兄に恩返ししてやろう、ってね。でも、それには時間が足りなかったんです。兄は消えました。私は何もできないままでした」

そこまで言うと、おっさんはグラスの残りを飲み干した。

「もし私が、当時の自分に何かアドバイスをするとしたら。私は、”限界まで耳を澄ませ”と言うと思います。そう、限界まで耳を澄ますんですよ。限界までね。

――そして、あなたはまだ間に合うところにいるんです。ぎりぎりですけど、まだきっと間に合うはずなんです」

おっさんがいなくなった後も、俺はその言葉について考えた。

「限界まで耳を澄ます」。そりゃ、一体どういうことだろう?本当にただ耳を澄ませってことなんだろうか?あるいは、深い意味のある有名な格言なんだろうか?それとも、特に意味はなく、口から出任せに言ったんだろうか?

アパートに着くと、俺はミヤギと一緒にベッドに潜った。

「あの男の人、いい人でしたね」と言って、ミヤギは眠った。

すうすう寝息を立てて、子供みたいに安らかな顔で。それは何回見ても、慣れないし、飽きないんだ。

俺はミヤギを起こさないようにベッドから降り、台所でコップ三杯の水を飲んだ後、部屋のすみに落ちていたスケッチブックを手に取り、ミヤギが起きていないのを確認すると、そっと開いた。

スケッチブックの中には、色んなものが描かれてたな。

俺の部屋にある電話や壊れたテレビや酒瓶、

レストランやカフェや駅やスーパーの風景、

あひるボートや遊園地や噴水や観覧車、カブ、ポカリスエットの空き缶、スヌーピー

で、俺の寝顔。

俺はスケッチブックを一枚めくり、

仕返しにミヤギの寝顔を描きはじめた。

しょっちゅうミヤギが絵を描くのを横で見ているうちに、絵の描き方ってのが大体わかるようになってたんだな。俺の頭からはすっかり色んなものが削ぎ落とされてたから「上手く描こう」とか「あの画家のアプローチを真似よう」とか、そういうよけいなことは一切考えずに絵に集中できた。

完成した絵を見て、俺は満足感を覚えると同時に、ほんのちょっぴりだけ、違和感を覚えた。

その違和感を見逃すのは、簡単だった。

ちょっと他のことに考えを移せば、すぐにでも消えてしまうような、小さな違和感だった。でも、俺の頭の中にはあの言葉があったんだ。

『限界まで、耳を澄ますんですよ』。

俺は集中力を全開にした。

全神経を研ぎ澄まして、違和感の正体を探った。そしてふと、理解したんだ。次の瞬間には、俺は何かに憑りつかれたかのように、一心不乱にスケッチブックの上で鉛筆を動かしていた。

それは一晩中続いた。

俺はミヤギを連れて花火を見に行った。近所の小学校の校庭が会場の花火大会で、それなりに手の込んだ打ち上げ花火が見れた。屋台もたくさん出ていて、思ったより本格的だったな。

俺がミヤギと手を繋いで歩いているのを見ると、すれちがう子供たちが「クスノキさんだー」と楽しそうに笑った。変人ってのは子供に人気があるんだよ。

お好み焼きの屋台の列に並んでいると、俺のことを噂で聞いたことがあるらしい高校生くらいの男たちが近づいてきて、

「恋人さん、素敵っすね」とからかうように言った。

「いいだろ? 渡さないぞ」と言って俺はミヤギの肩を抱いた。

なんか嬉しかったな。たとえ信じてないにせよ、

「ミヤギがそこにいる」っていう俺のたわごとを、皆、楽しんでくれてるみたいだった。

会場からの帰り道も、俺たちはずっと手を繋いでた。それが最後の日になると知っているのは、俺だけだった。

日曜になった。ミヤギは二週に一度の休日だった。

「よう、ひさしぶり」と代理の監視員が言った。

本来なら、余命はあと三十三日だった。明日になれば、ミヤギはまた俺のところにきてくれるはずだった。だが俺は、再び、例のビルへ向かったんだ。

そう、俺がミヤギと初めて顔を合わせた場所だ。

そこで俺は、残りの三十日分の寿命を売り払ったんだ。

査定結果をみて、監視員の男は驚いてたな。

「あんた、これが分かってて、ここに来たのか?」

「そうだよ」と俺は言った。「すげえだろ?」

査定を担当した三十台の女は、困惑した様子で俺に言った。

「……正直、おすすめしないわ。あなた、残りの三十三日間、きちんとした画材やら何やらを用意して描き続けるだけで、将来、美術の教科書にちらっと載ることになるのよ?」

『世界一通俗的な絵』。

俺の絵は、後にそう呼ばれ、一大議論を巻き起こしながらも、最終的には絶大な評価を得ることになるはずだったらしい。もっとも、三十日を売り払った今、それも夢の話だ。

俺が描いたのは、五歳頃からずっと続けていたあの習慣、寝る前にいつも頭に浮かべていた景色たちだった。

自分でも知らないうちに、俺はずっと積み重ねてきてたんだよ。それを表現する方法を教えてくれたのは、他でもないミヤギだった。

女によると、俺が失われた三十日で描くはずだった絵は『デ・キリコを極限まで甘ったるくしたような絵』だったらしい。美術的史なことにはほとんど興味がなかったが、一か月分の寿命を売っただけで大金が入ったことは嬉しかったな。ミヤギの借金を返しきるには至らなかったが、それでも、彼女はあと五年も働けば、晴れて自由の身になるらしかった。

「三十年より価値のある三十日、か」と監視員の男が笑った。

でも、そういうもんだよな。

残り、三日。最初の朝だった。

ここからは、監視員の目は一切ない。純粋に俺だけの時間だ。

ミヤギは今頃、どっかの誰かを監視してるんだろうか。そいつがヤケになってミヤギを襲ったりしないことを、俺は祈った。

ミヤギが順調に働き続け、借金を返し終わった後、俺のことを忘れちまうくらいに幸せな毎日を過ごせるよう、俺は祈った。

三日間を何に費やすかは、最初から決めていた。俺はかつてミヤギと一緒にめぐった場所を、今度は一人でめぐった。

思いつきで、俺はミヤギがいるふりをしてみることにした。手を差し出して、「ほら」と言って、空想上のミヤギと手をつないだ。

周りから見れば、いつも通りの光景だったろうな。ああ、またクスノキの馬鹿が架空の恋人と歩いてるよ、みたいな。

でも、俺にとっては大違いだったんだ。俺はそれを自分からやっておきながら、まともに立っていられないほどの悲しみに襲われた。

噴水の縁に座ってうなだれていると、中学生くらいの男女に声をかけられた。

男の方が俺に無邪気に話しかける。

「クスノキさん、今日はミヤギさん元気?」

「ミヤギはさ、もう、いないんだ」と俺は言う。

女の方が両手を口にあてて驚く。

「え、どうしたの? 喧嘩でもしたの?」

「そんな感じだな。お前たちは喧嘩するなよ」

二人は顔を見合わせ、同時に首をふる。

「いや、無理じゃないかな。だってさ、

クスノキさんとミヤギさんですら喧嘩するんでしょ?あんなに仲良しの二人でさえそうなるなら、俺たちが喧嘩しないわけがないじゃん」

気付けば俺はぼろぼろ泣いていたな。

二人は、そんなみっともない俺をなぐさめてくれた。

で、驚いたことに、俺の想像している以上に

俺のことを知ってるやつは多いらしくてさ。

“またクスノキが新しいことやってるぞ”って感じで、徐々に俺の周りには人が集まってきたんだ。

俺はミヤギとは喧嘩別れしたってことにしといた。向こうが俺を見限って、捨てたってことにしたんだよ。

「ミヤギはクスノキの何が気に入らなかったんだろう?」

女子大生っぽい眼鏡の子が、怒ったように言う。まるで本当にミヤギが存在したかのような口ぶりでさ。

「こんな良い人をおいて消えるなんて、そのミヤギってやつは、本当ろくでもない女だな」

若いピアスの男はそう言って、俺の背中を叩いてくれた。

俺は何か言おうとして顔を上げて、でもやっぱり言葉につまって、

――そのとき、背後から声がしたんだな。

「そうですよ、こんな良い人なのにねえ」って。

その声に、俺は聞き覚えがあったんだよ。一日や二日で忘れられるもんじゃない。俺にその声を忘れさせたかったら、三百年は必要だね。

声のした方を向く。

俺は確信していたんだ。

聞き間違えるはずはなかった。

でも実際に見るまでは、信じられなかった。

「そのミヤギって人は、ろくでもない女ですね」

ミヤギはそう言うと、自分でくすくす笑った。

「……すごいですよね、たった三十日で、

私の人生の大半を買い戻しちゃったんですから」

隣に座ったミヤギは、俺によりかかりながらそう言った。

周りの人間はあぜんとした顔でミヤギを見てたね。そりゃまあ、実在してるとは思わなかっただろうなあ。

「あんた、もしかしてミヤギさん?」と一人の男が訊ねて、

「そうです。ろくでもないミヤギです」と彼女が答えると、

俺の手を取って「良かったな!」と祝ってくれた。

だが、当の俺はまだ事情を飲み込めずにいた。なんでミヤギがここにいるんだ?どうして周りの人の目にミヤギが映ってるんだ?

ミヤギは俺の手を握り、説明してくれた。

「つまり、私もあなたと同じことをしたんですよ」

俺が寿命を三日だけ残して売った直後、あの代理監視員の男が彼女に連絡したらしい。

『クスノキとかいう男、自分の寿命をさらに削って、お前の借金をほとんど返しちまったぜ』ってさ。

それを聞いたミヤギは、すぐに決断したそうだ。

「三日残して、あとは全部売っちゃいました」とミヤギは言った。

「おかげで、借金を返しても、まだまだお金があまってます。三日間だけじゃ、とっても使い切れないくらい」

「さて、クスノキさん」

ミヤギは俺に微笑みかける。

「これから三日間、どう過ごしましょう?」

多分その三日間は、俺が送るはずだった悲惨な三十年間よりも、俺が送るはずだった有意義な三十日間よりも、もっともっと、価値のあるものになるのだろう。

おしまい。